川島の歴史

■川島の歴史

川島の歴史は、川とともに刻まれてきたといえるでしょう。
増水による洪水は、人々を苦しめる一方で、
豊かな実りを約束する肥沃な大地をつくってくれました。
そうした川の恵みに感謝しながらも、
洪水から生命や財産を守るため、
人々は堤防を築き、川の流れを変えてきました。
川と闘ってきた先人たちの歴史をたどってみましょう。
川島の歴史は、川とともに刻まれてきたといえるでしょう。
増水による洪水は、人々を苦しめる一方で、
豊かな実りを約束する肥沃な大地をつくってくれました。
そうした川の恵みに感謝しながらも、
洪水から生命や財産を守るため、
人々は堤防を築き、川の流れを変えてきました。


歴史を語る、数々の文化財
このように長い歴史を誇る川島。町のあちこち
には歴史の証人となる、さまざまな文化財が点在
しています。
「遠山記念館」は、当町出身で日興證券創立者
の故・遠山元一氏(名誉町民)が昭和11年に建てた
家屋の保存と長年にわたって収集した美術品を公
開するために、昭和45年に開館。日本をはじめ、
中国、中近東、中南米の美術品、それに国指定の
重要文化財を5点収蔵しています。
「廣徳寺大御堂」も国指定の重要文化財です。
大御堂とは、浄土信仰が盛んだった平安末期から
鎌倉時代にかけての阿弥陀堂のこと。この堂宇は、
北条政子が美尾屋十郎廣徳の菩提を弔うために建
立したと伝えられており、現在の建物は室町時代
の初期ないし中期ごろのものといわれています。
茅葺き、方三間の寄棟造、唐様の美しい仏堂です。
このほか、古墳時代の「石棺」や鎌倉期の作と
いわれる「薬師如来座像」、室町時代末期の作とい
われる「地蔵菩薩立像」、数々の仏像、古文書など
があり、川島の歴史を今に語り伝える町の大切な
財産となっています


川島町の地勢沿革

■川島町の地勢沿革 

川島町は埼玉県のほぼ中央に位置し、北は市野川を境として東松山市・吉見町に、東は荒川を境として北本市・桶川市・上尾市に、南は入間川を境として川越市に、西は越辺川を境として坂戸市に接しており、まさに“川に囲まれた島”そのものといえます。面積は41.72km2で、東西間11km、南北間8kmの距離となっています。標高は平均14.5mで高低差はほとんどなく、かつては見渡す限り水田地帯でした。
 この地域に集落を形成して生活を営むようになったのは奈良時代の少し前ごろからとみられており、町内にはそのころの様子がうかがえる「塚」や「塚の跡」が残っています。江戸時代になると川越藩の支配の中で農業生産が高まりましたが、反面、荒川の流れを現在の場所に変えたことで、たびたび水害に悩まされるようになりました。その後、時代が進むにつれ、河川改修や堤防の築造によって徐々に水害を克服してきました。
 昭和29年、川島領と呼ばれる中山・伊草・三保谷・出丸・八ツ保・小見野の6か村が合併し、川島村が誕生。以後は中学校の統合や上水道の敷設など、積極的な村づくりを進め、昭和47年11月に町制を施行しました。
 現在、町を東西に横断する首都圏中央連絡自動車道の建設が進み、川島の将来を左右する大型プロジェクトとして、大きな期待が寄せられています。

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。